スタッフブログ:「海外ボランティアを仕事にする」ということ
海外ボランティアに青春を捧げて、気づけば26歳になっていました
はじめて「国際協力」という言葉を知ったとき、僕はひどく純粋に「かっこいいな」と思ってしまった。凡人がヒーローまがいのことをできるかもしれないと、夢を見たのだ。
あれから10年が経った。僕は今、大気汚染のど真ん中、ネパールの首都カトマンズにいる。曇り空の具合から雨の時間を読もうと目を細めて突っ立っている。胸元には団体のロゴが重く乗り、右腕に巻いたスマートウォッチの振動が細かく血管を揺らす。砂埃だらけのカーゴパンツからスマホを取り出し、耳に当てながら歩き出す。
「よーさん今いい?今スラム着いたところなんだけど」
そのくらいで大体の要件を予見し、バイクタクシーを探し始める。
「ちょっとこっち来れる?新しい子のオリエンと、撮影もしたいし」
はいはいと返事をして切る頃にはバイクタクシーに跨っている。大気汚染の一端を担うマフラーの揺れを左足に感じながら、スラムへと向かう。「僕たちのスラム」へ。
今僕には今、2つの生活がある。日本に4ヶ月、ネパールに2ヶ月の行ったり来たりを繰り返しているからだ。日本。鋭い太陽光が刺さる、うだるような暑さの京都。碁盤の目の上を細い自転車で走り、ジムと職場と大学の三角形を毎日描いている。あらかじめプログラムされたつまらない点Pのように、同じ時間に、同じ速さで通過している。大学に行って研究して、ジムに行って筋トレして、職場に戻って仕事する。週に3回ほどは10kmほどのランニングをして、走らない日は本や漫画を読む。職場であり家でもある6畳のボロアパートには布団とキャリーバックしか荷物がない。シンクには完全栄養食のパウダーと、シェイカーだけが置いてある。大量殺人鬼かインチキミニマリストしか好まないような、単調で、モノのない生活。
ネパール。騒々しいクラクションと警官の笛の音が自律神経を狂わせるカトマンズ。坂の多い街をバイクタクシーで高速移動し、スラムとハウスを中心に毎日ぐちゃぐちゃの線を描いている。毎日がイレギュラーな事態の連続で、変則的なリズムと即座の対応、絶えず変更が行われ続ける忙しないスケジュールと、鳴り止まない通知の毎日。スラムに行って子どもたちにもみくちゃにされながら打ち合わせして、ハウス戻ってメンバーに講義をして、病院に行って体調不良者の付き添いをして、仕事場に行ってオンラインミーティングをして、たまの空き時間でジムに行く。最大収容人数20人のHĀWĀハウスには、毎シーズンたくさんのメンバーやスタッフが出たり入ったりする。大量の人間に押し倒されるような、激動で、ヒトに囲まれすぎる生活。
僕が運営する団体HĀWĀ(ハーワー)はボランティアプログラムを開催しながら、アフタースクールの運営を行っている。ボランティアとしてアフタースクールに人を呼び、来てくれた若者にフィールド教育として新しい気づきを生む機会をつくっている。HĀWĀのプログラムは短期、中期、長期があり、中・長期プログラムは自分で参加する日を決定できる仕組みだ。だからシーズン中に、同じHĀWĀハウスで「今日到着して、これから1ヶ月いる人」と「3週間活動して、明日帰る人」が「はじめまして」と挨拶を交わしたりする。出入り自由の形にすることで、結果的に子どもとボランティアメンバーが一緒に過ごす時間を長くして、ケアの担い手を増やそうという考えだ。30人ほどが通うアフタースクールにはスラムと呼ばれるエリアの子どもたちが毎日通い、はしゃぎ回り、勉強して、歌って、喧嘩をして、怒られ、(大抵の場合は)仲直りをしている。
単調と激動を行ったり来たりする僕の毎日がどうやってできたのか、簡単に人生をおさらいしよう。
18歳、大学1年生夏、はじめて海外ボランティアプログラムに参加。水難事故に遭う。
19歳、大学1年生冬、2000人規模の国際協力サークル連合の代表となり、奔走。大学1年生春、半年前と同じプログラムに参加。大学2年生夏、団体内でフィリピンへの海外ボランティアプログラムを実施。
20歳、国際協力サークルとして年間8000万円ほどの給食寄付を実施。夏、大学を休学し都内のベンチャー企業に就職。
21歳、大学3年生の冬、本格化したうつ病と睡眠障害で実家に戻る。大学を正式に辞める。プチ引きこもりを経て地元の児童養護施設に就職。地元の大学に再入学。コロナ。再び大学1年生。
22歳、2度目の大学2年生。開発経済学から人類学に転向。昼は大学生、夜はガールズバーやキャバクラのボーイとして繁華街を駆け回る。
23歳、2度目の大学3年生。授業の一環で初のネパール渡航。
24歳、春、フィールド調査のため2度目の渡航。現地で出会った学生団体のプログラムを引率。大学4年生の夏、再び学生団体の引率。
25歳、冬、海外ボランティア団体HĀWĀを設立。短期プログラム「こちらスラム、ただいま先生募集中!」を2回開催。大学院に進学。修士1回生の夏、HĀWĀは3回の短期プログラムを行う。同時に学生団体の引率も継続。
26歳、春、HĀWĀは初の中期プログラム「ボランティア留学」と「ケアボランティア」を行う。スラムのアフタースクールの「共同運営者」となる。修士2回生の夏、HĀWĀは初の長期プログラムを開催。参加人数、予算ともに5割の高成長を見せる。スラムの子どもに対する地域内暴力の報告数ゼロを記録し、アフタースクールの教室を1つ増設する。
僕の人生、今こんな感じ。いや〜こんなはずじゃなかったんだけどな。最初の大学に入った頃、僕はなんとなく、世界中をふらふら旅して生きていくんだろうなって思っていた。旅先で働いて、次の国の渡航費を稼ぎ、次の場所でまた仕事探して、そうやって生きていくんだと漠然と思っていた。
はじめてネパールに行った時のことを良く覚えている。今じゃ考えられないが、とても「静かな国だな」と思った。北インドをヒッチハイクとか夜行列車とかでざっくり横断してからネパールに入ったから、際立って静かだと思ったのだと思う。僕は今までマレーシアとフィリピンで活動してきたけど、人類学に転向してからなんとなく、国を変えることも考えていた。
今まで僕にとって海外ボランティアとは「金を払って」「自主的に」参加するものであり、バイト代を握りしめて行くための「貴重な経験」だった。だからこそ、大学の授業のためにこの国を訪れてボランティアができるとわかった時、僕は「せっかく行くのにただの往復じゃもったいないから別の国も回って帰ろう」と思ったのだ。そしたら大学側に「そんなことをするやつに単位は認められない」と言われ、調査に躍起になっていた部分もある。初めから僕にとってこの国は、旅行の対象ではなく、調査の対象だった。
2度目の渡航から始まった学生団体の引率は、本当に幸運が重なって出来たことだった。長くボランティアを運営してきた僕にとって、無償で引率の依頼を受けることはなんら不思議ではなかった。長くこの世界にいるからこそ、その経験から得られる学びが金銭に勝ると知っていた。そしてこのような下積み根性は、人類学のフィールドワークという調査方法に求められる姿勢とも合致する。教えを乞う時、自らの手仕事や時間を差し出すのは当然の礼儀なのだ。
海外ボランティアという参入が難しい世界に、自分が新しい形で入るということの特別感を実感していた。でもその頃の僕は全能感に溺れ、「悪い自信」を持っていたように思う。自分のことを等身大に理解せず、ミスを詫びず、自己正当化を繰り返していた。反省するポーズだけは一丁前で、つまらないプライドや過去に足を引っ張られていた。
学生団体の引率や活動計画を手伝ううちに、僕は「自分の海外ボランティアプログラムをつくりたい」と思うようになった。それは今まで関わってきた多くの海外ボランティアプログラムに対する疑問から生じた、ごく自然な感情だった。「子どもを救いたい」「いいことをする自分を自慢したい」という海外ボランティアに蔓延るようなヒロイズムを嫌い、ただ知的好奇心の赴くままに設計を楽しんだ。自分のプログラムをつくることの面白さを実感する度に「常に子どものことを大好きで、一番に語らなければいけない」という外圧に押された。この世界に蔓延るイメージを嫌いながらも、自分が一番そのイメージに囚われていたように思う。嫌なものに囲まれて身動きが取れなくなる前に、とにかく現場に飛び出して新しいことを試したかった。迫り来る手から逃げるように仕事をした。鏡の前のルームランナーでただ走っていたような一年目は赤字だったが、それでも「自分のバイト代以外で海外に行く」という体験の驚きが大きかった。どう感じていいのかも分からず、少しの罪悪感だけが胸に残っていた。
2年目、HĀWĀは急成長した。僕の渡航費どころの話ではなく、3桁の数字がポンポン動く団体になった。広報、説明会、現地の活動のノウハウは持っていた。そしてHĀWĀは2年目にして「人を呼ぶ海外ボランティア団体」から「スラムのアフタースクールを運営する国際協力NGO」になった。自分がこの世界に残り続けることも、30人の子どもが通うアフタースクールの共同運営者になることも、全く想像していなかった。共同運営者になるとき、僕は「共同」という形にこだわった。「外国人が運営している団体に子どもを集める」のではなく、ネパールに生き、暮らす人々に頭を下げ続けたかった。だからこれからも、どんなに資金の割合が変わろうと、「共同運営」をやめたくないと伝えた。そんな僕の思いを知ってか知らずか、子どもたちは大きくなった。大きな洪水、治安の一時的な不安定化、家族の不安定化などはありながらも、子ども一人ひとりは身長も顔つきも成長していった。子どもを見るとき、彼らの背景に勝手に悲しい現状を重ねて、そのイメージを消費するのが嫌いだった。だから今この瞬間の、目の前の子どもの勉強意欲に応えたいとだけ思うようにしている。
HĀWĀは3年目を迎えた。今年の夏は雨が良く降った。ヒマラヤも滅多に顔を出さなかった。晴天の数分後には土砂降りが降り、諦めて雨宿りに入ったカフェでアメリカーノを頼んだくらいに雨が止んだ。気まぐれな天気のご機嫌を伺いながら8月を送った。プログラム今シーズンは座組を変えず「最低参加2週間から」「ボランティア先は直営のアフタースクールのみ」として、参加のハードルを上げた。インターン生を公募し、常に2枚以上で稼働した。途中、8人が一気に来る短期プログラムを開催した。スタッフはネパール人現地コーディネーターを含む8人。それを束ねるのが僕の仕事になった。
私生活の変化もあり、僕は人間として全然別種類の生き物になった。考え方が変わったというより、複線的に走っていた生き方を絞り、習慣を纏った。生き方をつくるのは習慣であり、生き様は習慣の足跡である。そう強く思うようになった。毎日のトレーニング、睡眠、食事、仕事、研究を意識的に組み立てた。捻くれていた3年前とは違い、より着実で、より用意周到で、よりストイックに、より長距離型になった。自分が倒れずにプログラムの質の向上に努めることが、結果的に子どもに帰っていくことを確信していた。「支える人を支える」ことが僕の命題になった。僕1人では子どもの「見て!」に応えきれない。だから目を増やそう。子どもはメンバーの手を引っ張る。自分のことを見てほしい、リアクションが欲しい、ずっと見ていてほしい。僕1人では応えきれない。だから、応える人を増やし、支え、育てたいと思った。HĀWĀは来年から、拡大期に移る。プログラムの数もスタッフの数も増えた。どんなに大きくなっても、私はHĀWĀが「自分の手から離れ、もう自分だけのものではない」という感覚を持ちきれない。心で納得していない。
その理由は、HĀWĀがここまで急成長を進めてきた理由とも重なる。僕たちは1の現象から10考え、蓄えてきたのだ。毎日分厚い日報を書き、休まず働き、1日中会議をする。「普通なら」取りこぼしてしまうような、なんとなく「経験値」で済ませてしまうような体験を記録し、明文化し、精査し、評価し、変える。学習ペースが「早い」のではない。毎日「最大限」を重ねているのだ。ただ「早く学ぶ」のではなく、「できる限り多く学び、評価し、確かめ、変えるあるいは変えないという判断」をする。
これは僕の生き方そのものを投影した仕事の形。スタッフは毎日長い時間会議して、日報を書く。だから現場でブレない。それぞれの考えや視点を細かく、最大限共有し、擦り合わせているから。互いが何を見て、何を考えているのかを共有しているから。現場でそれぞれの強みは生きても、ブレることはない。皆が同じ方向を向くというのはカリスマ的なリーダーの啓発でも、皆で共感し合うことでもなく、分厚い分量を重ねるという行為に下支えされた、擦り合わせなのだ。恐ろしく主観的な日報がチームのすり合わせを日々行うためのものになった。毎日別のスタッフが書く日報を読んで、その人の考えていること、見る世界を知った。そうすると自然に、僕らの体はその「真ん中」を目指して動くようになった。僕らの言葉はその「真ん中」をめがけて飛ぶようになった。毎日無数に起こる現象にみんなで意味を付与して、「真ん中」へ集まるようになった。
HĀWĀの日報はこんな感じ。
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HĀWĀのインターンってほんとにストイックだ。毎日、長い長い日報を書いて、現場を回して、動画という大きなプロジェクトも同時進行、ミーティングもやって、イレギュラーもありながら、終わりのない対話もしていく。本当にストイックインターンだ。みんな本当に頑張ってる。食いついて食いついて、どんどん大きくなっていく。嬉しい。あとインターン生にめちゃくちゃ俺のボキャブラリーが移っているのが嬉しくもあり、影響力を自覚して肝が冷える。人の人生に近づきすぎるのって危険だ。今日報を読んでるあなたも、僕が普段人に見せない場所までバンバン見ている。気付かぬうちに影響されてるし、しあってる。日報を通じて毎日とっても細かい部分まで共通認識をつくり、方針を揃えていけるから現場でみんな迷わなくて済む。それは素晴らしいことだけど、他人に近づきすぎるのって、少し危険だ。分量も時間も1番書く僕自身が、それを忘れたくない。水面に石を投げておいて、知りませんでしたじゃ済まされないぞ、俺!
もう一度「思いつく」。「思い出す」んじゃない。「もう一度新たに、前と同じことを思いつく」んだ。時間が多く見えて、何をしようかと持て余す。会議をやって方針を決める。会議で無数のアイデアが出る。時間が「足りない」と思う。そして、困った時は会議をやればいいんだと、「また、新たに思いつく」。そして「肝に銘じよう」として、また忘れる。それでいいんだと思う。もう一度思いつけるから。
来シーズンの目標が決まった。「一度きりの自己変容で終わらない、もう一度来たいと本気で思える海外ボランティアプログラムをつくる」こと。渡航前準備から現地プログラム、帰国後に至るまで、ユーモアと、新しさが詰まりに詰まったものにしたい。HĀWĀの在り方自体を、面白いと思ってもらいたい。「変わった」で終わらせない。「またこれからも、新しく変われる」という確信をつくる。直行便が週に3本しか飛ばない、まだまだマイナーで、大気汚染レベルが世界トップクラスのこのカトマンズで、世界中探してもどこにもないほど新しいボランティアプログラムをつくりたい。海外ボランティアの質は客観的な指標がない。選ばれたり、評価されたりするものではない。雲を描くように実績を立てていかなければいけない。その中で、みんなが走りやすい目標をつくりたい。
コンディショニングも学ぼう。場づくりも考え直そう。お土産も増やさねば。もっと改善点はある。「やらなくてもいいけど、もっと良くなる」ことをやるのは怖い。他にやることがあるのではないか、特に結果に繋がらないんじゃないかと思ってしまう。そういう「課題の解決」という結果だけを追い求めるより、「質の向上」という過程の集合体で、結果にたどり着けるのではないか。
問題より悩みに寄り添う。何を問題化するのかどうかは、現象を当事者から引き剥がす。でも悩みは個人のものだ。「何が問題なのか」ではなく「何に悩んでいるのか」という視点が、問題化の権威性を引き下げていくのかもしれない。
意識的に生きるって難しい。つい、惰性で1日を終わらせてしまう。毎日1つずつ、スモールステップを用意したい。ボディメイク、頑張り続けられるって最高だ。ダイエットが終わっても毎日のカロリー、PFC管理、メンタル管理、睡眠の管理。カロリーそれ自体よりも、「食べていい感覚に慣れてしまうこと」を恐れ、甘やかしを飼い慣らせ。自分はぶれる。だから戻す。メンタルってほんとにフィジカルだ。終わりがない!最高だ!ずっと頑張らせてくれ!
言わなきゃ伝わらない。考えていること、思ってること、言葉にしなきゃ分からない。HĀWĀへの思い、プログラムへの思い、話すことで喚起されてゆく。動画撮ろうっと。
運営会議未満。会議は楽しい。昔は一人でやった方がいいアイデアが出るって思ってたけど、今は全然違う。みんなのアイデアが欲しい。僕を休ませないでほしい。新しい発想をくれ、ドキドキさせてくれ、当たり前をぶち壊す発想の転換をくれ。どこにもないものをやろう。守破離をはしる、アイデアを欲張れ、発想を壊せ。「降りてくる」のなんて待ってらんない、奇跡的な発想は「こっちからとりにいく」んだ。撤退がよぎる時こそ突っ切れ、今ここだと思う時こそハンドルをきれ、誰もが賞賛する時こそブレーキを踏め。長い長い長い会議、最後の最後は「直感」を信じろ。
海外ボランティアって、もっともっと面白くなる。もっと新しくなる。みんな何やってんだ!って思う。業界の人達。同じ型でやってどうする。半年に1回しか新しいこと試せないんだ。最速ペースだって半年ごとなんだ。だからもっと焦れ、もっと餓えろ。今から変えろ、すぐ試せ、1試して100学べ。時代は変わる。勝手にすごい速度で変わっていく。追いつこうとするな、追い越せ追い越せ。
イベント運営には全てのノウハウが詰まっていると、思う。TFTで何本もうった。役をもらった、人とやった、1人でもやった。小さいの月に3本、年間で大きいの4本、海外渡航1本、3ケタ万のを年間2本。コロナ禍は毎週うった。その全てが、僕の筋肉になっている。フィールド教育も、ちいさな「イベント運営」の集合体だ。てか、仕事ってそうだ。軽く見られがちだけど、企画、営業、会議、広報、財務、現場、報告。仕事に必要な下準備が全部詰まってる。2年生の終わりごろにはどんな規模のイベントのどんな部署に入っても最大値を出せるようになっていた。1人でできるじゃんって若い頃の全能感に任せて調子に乗ってやってよかった。1人で運営して100人集めたあのイベントを境に、2年間のイベントガツガツ欲は落ち着いたと思う。 教えてくれた先輩方に今さら感謝が浮かんでくる。「全部の記録塗り替えます」なんてほざく生意気すぎる後輩に付き合ってくれてありがとう。先輩たちに教わった知恵のおかげで、後輩たちに伝えられていますよ。 放っておかないでくれた同期にも感謝が浮かぶ。県庁コラボとか、百貨店コラボとか、なにそれ超かっけえじゃん悔しすぎるって思わせてくれてありがとう。みんな気づいたら別の世界に行ってたけど、俺はまだ国際協力やってるよ。
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昔のことを考えていたら、スラムに着いてしまった。ボコボコの足元を注意深く進むと、遠くから子どもたちの高い声が聞こえてくる。あ、今日は学校が早く終わったから集まるのも早いのか。僕の姿を見つけた子どもたちが僕に手を合わせて軽く挨拶だけして「こいつに構ってる暇はない」と言わんばかりの勢いで遊びに戻る。奥に目をやると、オレンジ色のTシャツを着たメンバーが子どもと遊んでいた。メンバーの活動記録と子どもの成長記録のために構えた一眼レフのファインダーの目の前を別の子が走っていく。
ああ、こういう場がつくりたかったんだよ。最初には僕にばっかり集まってきた子が、今じゃお構いなしにメンバーのもとへ駆けていく。メンバーの腕を引っ張り「見て!」と言う。今日の宿題をやるから見てて、新しくできるようになったポーズを見てて、手遊びを見てて、髪を結ぶから見てて。振り回されながらも応えていくメンバーを、支えるために僕は仕事をする。
もっと多くの人にHĀWĀに来たいなと思ってもらうことは、子どもの担い手を増やすことと同義だ。HĀWĀのプログラムが学び多いものだったのであれば、メンバーはそれを周囲の友人に伝えてくれる。だからまた人が集まる。僕はスタッフと何時間も会議して、毎回新しいボランティアプログラムの形を模索する。複雑なように見えて、やるべきことはずっとシンプルだ。ただ目の前の子どもの悩みに、ただ目の前のメンバーの葛藤に最大限で応えればいい。
振り返れば、どうにもならないと思うことって何度もあった。首が回らなくなったことも数知れず。全員敵に見えて、小銭を数えて電車に乗ることなんて茶飯事だった。でも僕は世界を恨んでいない。今この場にいることがどれだけ幸せなことかなんて、そんな使い古された言葉でまとめるような<今>じゃない。過去がなんだ。実績がなんだ。<今、ここ>で変わるんだ。海外ボランティアの、全く新しい革新的な発想は、「よく学び、よく考え、よく動き、よく食べる」というまったく古めかしい習慣から生まれるんだ。
僕が一番、HĀWĀに期待している。きっとここは、新しい発想を生んでくれる場所であり続けるだろうって。いつも変わらない新しさを、変わり続ける不変をくれるだろうと信じている。
おもしろい場所ができたよ。みんな見においで。
2025/09/20
活動に参加してみませんか?



海外ボランティアのHĀWĀの法人活動理念
HĀWĀは、ネパールのスラムでアフタースクールを運営しています。
スラムで授業をしたり、孤児院でダンスをしたり、様々な活動をしています。
ボランティアに参加するメンバーの動機は千差万別で、「友達をつくりにきた」「不甲斐ない自分を変えにきた」「世界を広げにきた」「子どもに会いにきた」などです。
しかし、その活動はいつだって、「誰かのために」。授業を考えるのも、遊びを考えるのも、屋根の穴を直すのも全部、自分以外の人のためになることです。
コスパ、タイパが叫ばれて、皆が自分のことばかり考える時代です。そんな今だからこそ、
人のためにやってみよう、自分のために生きたいから。