【海外ボランティアの本質に迫る】なぜ海外への支援が必要なのか
海外支援活動に関心のある皆さんにお尋ねします。
国内ではなく、海外に支援する意味を考えたことはありますか。
確かに、日本にも生活困窮者はたくさんいますし、支援が必要とされる孤児たち、貧困家庭に育つ子どもたち、ホームレスの人々もいます。
こういった、身近なところに支援することも、もちろん大切なことです。
それでも、私は、カンボジアと言う地に一人でやってきて、支援活動を始めました。
そこには、以下の4つの理由がありました。
1 日本の戦後も各国からの支援を受けていたという事実
日本の敗戦後、1945年から10年間ほどは、国内は戦災者、浮浪者、孤児であふれかえり、混乱を極めた時代でした。物資や食料が極端に不足し、闇市が流行り、窃盗や強盗が多発し、国民の生活は混乱していました。
そんなときに支援の手を差し伸べたのが、ララ物資とユニセフによる支援です。
当時、大量の物資が、船舶によって、横浜港に運ばれてきました。
厚生省の調査報告書では、ララ物資による支援は、1952年までに、ミルク類,砂糖,塩,醤油,油類,缶詰類,菓子等の食料11,000トン,乳児・児童・大人用の衣料2,750トン,布団綿,原反,靴,石鹸,学用品,食器類,ハミガキ,タバコ,その他日用品,医薬品等1,750トン,山羊2,175頭,乳牛45頭などがあり、それらは、社会事業収容施設・国立病院・国立療養所・保健所・病院・大学・高等学校・小学校・引揚者・戦災者・開拓者・非常災害の罹災者・その他一般生活困窮者等に配分されたと記されています。
当時、延べ1,700万人以上の人々がこの恩恵を受けました。現在70歳以上の方々の世代に当たります。
また、ユニセフからは、1949年(昭和24年)から1964年(昭和39年)までの15年間にわたり、給食用の粉ミルク(脱脂粉乳)のほかに、衣服をつくるための綿や医療品など、当時のお金で65億円もの援助を受けています。
こうした支援により、戦後の困窮した人々の生活が支えられたこと、そして荒廃した人々の心にも希望の光が当てられたことを、私たちはきちんと知っておく必要があります。
2 日本の経済成長は途上国からの資源の輸入や労働力に頼っているという事実
ユニクロやH&Mの生産拠点が東南アジアにあることを、皆さんも何となく知っていることと思います。
ここカンボジアにも、数多くの縫製工場が存在しており、数十万人の労働者たちが働いています。
労働者たちは、毎朝、トラックの荷台に立ち乗りして工場に向かいます。
そして、月~土曜日までフルタイムで働きます。月収は、190$です。(2021年現在)とても、十分な給料とは言えません。
下の写真が、カンボジアの縫製工場での仕事の様子です。
ほとんどが、地方出身の女の子たちです。
毎月、所得の半額以上を田舎の残された家族に送金します。
プノンペンには仕事はあれども、物価は地方に比べて高いので、暮らしは決して楽ではありません。
ぎりぎりの生活で追い詰められている毎日だと涙ながらに訴えます。
皆さんも、ご自分の衣服を見るとき、このような労働者たちのことを少しでも関連付けてみてください。
私たちの生活は、こういった人々の存在によって支えられているということを忘れてはならないと思います。
現地で購入するお土産物を、しつこく値切って買い物をする人をみかけます。値切ることは、悪いことではありませんが、度が過ぎるとそれは考えモノです。
製品を販売するということの裏には、生産者と流通業者がそれで生計を立てているという流通の原則があります。
必要以上に値切れば、彼らの生活をますます苦しめることになります。そんなことも、私たちがよく考えたいことの一つです。
3 日本と海外とでは貧困の度合いが全く異なるという事実
カンボジアの人々が一日に稼ぐ賃金は、日本で稼ぐ1時間の時間給よりもかなり低いことをご存じですか。
下の彼は、11歳の少年です。学校に行かず、炎天下の元、サトウキビの切り出しの仕事をしています。1日の賃金は、10,000リエル。約280円です。
下の少女たちは、観光地で出会った子どもたちです。放課後に クロマーと言われる綿製品を売り歩いていました。1枚で2ドル、2枚なら3ドルです。
日本で、このような児童労働を見ることはありません。貧困家庭に育つ子供は、社会的に保護される仕組みが整っているからです。
ゴミ山からプラスチックごみや使えるものを集め、お金に変えて生計を立てている子どもたちも大勢います。
実は、カンボジアにはごみの分別がありませんので、このごみの中には、生ごみが混ざっています。この子たちは、想像を絶する異臭の中で作業をしているのです。
最後に、カンボジアには、国からの支援はありませんし、年金もありません。
絶対的な貧困
貧困の度合いが、異次元だということもお分かりいただけるものと思います。
4 今も残る戦争の傷跡
日本は、戦後20年で奇跡的な復興を遂げました。1964年には東京オリンピックが開催され、日本の戦後は終わったとまで言われました。
しかし、カンボジアでは、今もなお戦争の傷跡が残ります。
内戦時代に国境付近に埋められた地雷。
一個20ドルほどで購入できるため、カンボジアにも大量に輸入されました。
ところで、皆さん、なぜ地雷が「非人道兵器」と言われるかご存じですか。
それは、地雷そのものが、相手を殺すことを目的としていないからです。
1個の地雷が敵兵士の足を負傷させます。すると、その負傷した兵士を運ぶために2名の兵士が抱えて歩行しなければなりません。
それにより、3名の敵兵力を減らすことができるというのです。
その被害に遭うのは、一般の人々です。カンボジアでは、こうした多くの被害者を生み出してきました。
カンボジアには、地雷処理省という政府機関があり、国を挙げて地雷処理に当たっていますが、未だに未処理の地雷が600万個埋まっているため、その道のりはたいへん険しいのが実情です。
日本の戦後にも、昭和の時代まで、不発弾が発見されたというニュースがありましたが、今では、そんな心配もなく、人々は安全に暮らせるはようになりました。
以上4つが、私が海外に支援をする理由として念頭に置いていることです。
私は、いつもこの4つを自らに問いかけながら、ここにいる自分の存在を確かめています。
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今日もあなたに素晴らしい一日が訪れますように、オークン。
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JECSAカンボジアの法人活動理念
当団体は、カンボジア貧困州の学校の子どもたちの言語能力を向上させ、知恵や知識力の獲得を促し、豊かな情操教育の向上に寄与する読書指導の充実と、地域一体型の教育を推進するための拠点として機能する学校づくりと教育環境改善をサポートしています。また、スラム支援や貧困世帯の子どもたちへのマンスリーサポートなど、ピンポイントで届く支援活動も行っています。