ところで「障害」とはなんでしょうか?
障害とはなんでしょう?特別支援学校、支援級などに、知的障害、自閉症、ダウン症、身体障害、精神障害、ADHD・・・などと言われる子が集まっています。
障害とは、未熟な社会がうんだ現象です。社会が未熟であればすべての人が障害になる可能性があるし、社会が成熟していれば、すべての人が障害を取り除くことができます。
たとえば、視力がわるい人は、メガネをかければ「障害」がなくなり、近くのものが見えたり、遠くのものが見えたりします。
足が不自由な人であれば、段差をなくしたり、エレベーターを設置したり、車椅子にのったりすれば障害がなくなります。
メガネや車椅子みたいに単純では、ありませんが、知的障害や自閉症なども環境を整えれば、「障害」をなくすことができます。
その子にあった居場所で、その子にあった課題を与え評価し、その子が必要とするものを用意すれば「障害」をなくすことができます。
その子にあった課題を与えれば100点をとれます。
しかし、現状の学校などでは、その子にあった授業やテストをすることができず、子どもがその子なりに頑張っても評価ができていません。
自己肯定感が下がりまくって、自傷行為や精神障害などの2次障害になる子もいます。
社会が、その子にあった「居場所」「課題」「評価」「もの、人」を用意できないことが問題なのです。社会が未熟で「障害」と区別をしているだけなのです。
ちょっと複雑な発達障害の「居場所」「課題」「評価」「もの、人」をどのように用意すればいいのか学んでみませんか?
ひまわりでお待ちしております。



合同会社ひだまりの法人活動理念
僕らはもう、十分に与えられているのです。情報も、人も、自分自身の才能も。それなのに「まだ足りない」と言って、すでに与えられたものを捨ててしまったり、生かすことができなかったりしています。本当は、すでに十分なのです。
大好きな映画を何度も繰り返し観る。気に入った場所に何度も行く。好きな音楽を何度も聞く。心惹かれる絵を何度も見て感動する。春夏秋冬の景色をただ眺める。これらすべては、すでに神様から与えられたものです。本来、追加の情報は必要ありません。蛇足なのです。なぜなら、一日の情報量は縄文時代の一生分より多いと言われています。
とにかく、私たちは「十分」なのです。気に入った歌をカセットがすり切れるまで聞けばよいのです。昔の人はもっと作品も、人も、自然も、大切にしていたはずです。家族がいて、友達がいて、仲間がいる。それだけで本来は十分なのです。
「足りない」とゾンビのように彷徨うこと自体がおかしいのです。足りないと思い続ける限り、目の前にある幸せを見失ってしまいます。すでに与えられたものを大切にできない人は、どれだけ手に入れても「足りない」と感じてしまいます。なぜなら、「足りない」という感覚そのものが幻想だからです。
すでに神様から与えられたモノを大切にする施設です。