宝牧舎
【牛の幸せについて考えるとは?】
私が牛飼いを始めた15年ほど前と比べると、最近は若い人たちを中心に、SDgsなどの環境問題を中心として、家畜福祉(アニマルウェルフェア)への関心が高まっていることを実感しています。おかげさまで、宝牧舎の「牛の幸せを考える牧場」に「共感」を頂ける人も増えて、家畜福祉への取り組みを「評価」頂くことも少なくないです。でも実は、その共感や評価のほとんどが「同情」なのではないかと思っています。それは、その多くが「かわいそうですね。」「いいことやってますね。」と言ったものだからです。もちろん、その共感や評価が例え同情であったとしても、牛の幸せを考えるという入口であることは間違いないのですが、それだけでは「牛の幸せを考える。」ことにはならないと思っています。
【動物愛護と家畜福祉は何が違う?】
私は、動物愛護と家畜福祉の違いについて、動物愛護に取り組んでいる方々に教えて頂きました。私なりの理解では、動物の愛護は感情、家畜の福祉は科学であり、人間は感情的かつ論理的な動物でもあるので、愛護と福祉は相反ではなく、相互作用するものと考ました。私は、捨て犬を「かわいそう。」と思って自宅で飼おうとすることは、「いいこと。」だと思います。でも、それが「捨て犬にとって」良いことかは分からないし、そもそも分かるはずがない!と考えると、その分かるはずのないことを「科学的」に考えることが福祉なのだと気づきました。
【牛の幸せを科学的に考えるとは?】
そして私は、「牛の幸せ」を自分なりの科学で考えてみたのですが、いくつかの矛盾に行きつきました。どんなに牛の幸せを考えたとしても、最終的に人間の食べ物となる運命である牛の幸せは、存在しないのではないかということです。自分のことに置き換えたら、「あなたは最終的には食べられる運命だけど、できるだけ幸せになれるように考えるよ。」ということかなと。それでも、「せめて生きている間だけでも幸せに生きてほしい!」で良いという考え方もありそうですが、そうなるともはや科学ではなくただの感情ですよね。
【牛の幸せを何となく考えてみた。】
実は私自身が(家畜である)「牛の幸せはない。」と考えていました。牛の幸せを考える牧場の主としては完全に失格ですが、だからこそ誰よりも牛の幸せを考えてきたつもりです。そこで行き着いた1つ目の答えが、「有難く頂く。」ということです。お肉として有難く食べてもらうことが(家畜である)牛の幸せだということです。でも待てよ、それってただの自己満足だよなというところで、2つ目の答えを考えているところです。まだうまく言葉にはできないのですが、牛だって自分の幸せだけ考えて生きていないと思うし、自分の子や仲間の牛たちの幸せも考えるだろうから、この世に残された牛たちやこれから生まれてくる牛たちにも、「今よりもましな」幸せを届けられたらと考えています。
【牛たちの幸せがなぜ私たちの幸せになるの?】
(現在の)宝牧舎のビジョンは、「牛たちの幸せが私たちの幸せになる社会をつくる。」なのですが、掲げた本人が一番理解できていないのが恥ずかしいです。自分なりに説明すると、現代の畜産は、「人間の幸せのため、家畜の幸せを犠牲している。」が、未来の畜産は、「家畜の幸せのうえに、人間の幸せがある。」といった感じです。やっぱり良くわからないですね。それでも続けると、牛とのふれあいを通じた自分自身の心理的な幸福感もあれば、お肉を頂くことを通じて家族の会話を円滑にすることもできるはずです。牛の幸せを考えることは、野生の動物や植物だけでなく、微生物やウィルスといった多様な自然への興味が深まったり、世界の戦争や貧困などあらゆる生命への関心を深めるきっかけになるとも思っています。なぜなら、私自身が牛の幸せを考えることでしか、自分の幸せを実感できないからです。
【牛を飼うことになった理由】
私は、1頭の黒毛和牛の母牛「あきひめ」を農家からもらって、今から約15年前に牛を飼い始めました。なぜ牛を飼い始めたのか?その理由は、「お金のため。」でした。27歳で鹿児島の口永良部島という小離島に移住した私が島で暮らしていくための「手段」として、牛を飼い始めました。
牛はもちろん、いわゆる農業や畑仕事なども全くしたことがなかったし、当時は今みたいにインターネットの時代でもなく、携帯の電波も届かないような島だったので、何もかも全て、島の農家に教えてもらっていました。
【自然放牧で牛を飼うことの意味】
そんなど素人が島で暮らすために牛を飼い始めたのですが、当初から「自然放牧で牛を育てたい。」と思っていました。その理由は、「儲けるため。」でした。もちろん、ただ儲けることだけを考えていたわけではないのですが、僻地の離島で1日でも早く仕事として稼ぐことが「目的」だったので、母牛の種付けや分娩の他、子牛の哺乳から育成までその全てを、できるだけ自然に行う自然放牧でしか、稼ぐことは難しいと思っていました。
【牛飼いを続けることの意義】
そのような理由で、口永良部島で牛飼いを始めたのですが、結局7年で島を離れることになりました。詳細は割愛しますが、その後も、薩摩黒島で3年、宗像大島で3年、島暮らしを続けていて、その間もずっと牛を飼っているので、現在の大分に来るまで計3回、牛をフェリーとトラックに載せて引っ越しています。なぜ3回も牧場を引っ越したのか?その主な理由は、「自然放牧ができなくなったから。」です。島には限りませんが、牛を自然放牧で育てるためには、多くの人たちの協力が不可欠です。何度となく「牛飼いを辞める。」という決断を迫られたのですが、これまで協力してくれた人々と犠牲になってきた牛たちへの「恩返しのため。」、牛飼いを辞めるわけにはいかなかいという結論になりました。
【何のために牛を飼うのか?】
私は、牛がすごく好きなわけでもなく、おいしい肉を作りたくて牛を飼ってはいないので、「なぜ牛を飼っているのか?」と聞かれていつも困っていました。私の座右の銘は、坂本龍馬の「世に生を得るは事を為すにあり。」で、私なりの解釈では、「どうせ生きるのだから、何かを残して死ねよ。」です。私は、学生時代から現在まで、自分の存在価値を「他人がやらないことをやること。」と定義しています。牛飼いを始めてから本当にいろんなことがあったのですが、こんな自分がどうせ牛を飼うのだから、他の農家がやれないことをやりたいと思いました。それが「牛の幸せを考える牧場」です。
【牛の幸せを考える牧場とは?】
ほとんどの牛飼いは、牛の幸せを考えています。私より牛を大切に育てる人をたくさん見てきたし、新規就農者や新規参入者の人たちには、特にその傾向が強くて心強いです。ただ、私を含めた全ての畜産農家は、家畜を経済動物として飼っているので、現実的には「家畜の幸せ<人間の幸せ(お金)」で、私たちの幸せのためには、牛たちの不幸はやむを得ないのです。それでも私は、「牛たちの幸せ=私たちの幸せ」を追求したいと考えています。なぜなら、私自身が自然放牧で牛を育てることを通じて、自然の厳しさや生命の有難さを体感し、生きることの意味や食べることへの感謝を実感しているからです。そういう意味では、まだ「牛の幸せ<私の幸せ」なのかとも思うので、これからもより一層と牛の幸せを考え続けていきたいです。
2024/11/21更新
家畜とは、「人間がその生活に役立つよう、野生動物であったものを馴化させ、飼養し、繁殖させ、品種改良したものをいう。」と定義されています。かつて使役動物であった牛や馬の他、近年愛玩動物として飼育される犬や猫から実験動物であるマウスやミニブタなども家畜とされています。しかしながら、今の私たちが思い浮かべる家畜は、牛・豚・鳥などの経済動物が一般的で、犬や猫などの愛玩動物までを家畜と呼ぶ人はほとんどいません。
あらためて、牛・豚・鳥などの経済動物(家畜)と犬・猫などの愛玩動物(ペット)の違いを考えてみました。私なりの解釈では、家畜は人間のために「犠牲」となる動物で、ペットは人間のために「貢献」する動物です。なぜならば、家畜はその生命を犠牲にして私たち人間の食欲を満たす一方で、ペットはその生命を全うすることで私たちに癒しを与えてくれるからです。
昨今のペットブームや先進医療に向けた研究開発から、ふるさと納税で大人気の牛肉まで、現代に生きる私たち人間にとって家畜化された動物は、人類史上最も必要不可欠な存在となったといっても過言ではないと思います。
非農家で育った私は、27歳のときに島で牛を飼い始めてからまだ15年ほどで、牛飼いとしてはまだまだ素人です。その未熟さゆえに、たくさんの牛たちの生命を犠牲にしてきました。それでも、島で感じた自然界に生きる人間の強さと弱さ、牛から学んだ自然の厳しさと生命の有難さを、1人でも多くの人に伝え続けることでしか、私には贖罪ができません。
いつの時代も、不安定な社会とか先行き不透明な時代などと言われているとは思いますが、昨今のコロナ禍から各地で広がる戦禍に加えて、折しも年初から大規模な自然災害と人身災害が続いていますが、あらためて私たち人間は、自然や生命と真摯に向き合うことが何よりも大切だと考えています。
「家畜に幸せはあるのか?」みなさんはどのように考えますか?
団体名 |
宝牧舎 |
---|---|
法人格 |
株式会社・有限会社・合同会社 |
HPのURL | http://houbokusha.jp |
代表者 |
山地竜馬 |
設立年 |
2019年 |
FacebookページのURL | https://www.facebook.com/groups/houbokusha |
職員数 |
1 |