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2021/04/23

代表である平井がCLACKを立ち上げたワケ(前編)

こんにちは。NPO法人CLACK代表の平井大輝です。
CLACKは、経済的・環境的な困難を抱える高校生に、プログラミング学習とキャリア教育を提供している大阪のNPO法人です。

今日は、僕がCLACKを立ち上げたワケを語っていこうと思います。

CLACKを立ち上げた背景を語る上で僕自身のバックグラウンドについての話が欠かせません。そんなこんなで幼少期から遡って書いていたら、ボリューミーになりすぎたので、前編・後編に分けました。

ぜひ最後まで読んでくれたら嬉しいです。

漫画に囲まれて育った小学生時代

1995年4月、阪神淡路大震災の傷跡も癒えない中、僕は大阪で産声を上げました。9歳上の姉と7歳上の兄がいて、3人兄弟の末っ子として育ちました。

平井幼少期

兄弟の写真 僕は左下です。前髪のクセは当時からだったようです。

父は祖父の代からやっていたうどん屋を継ぎました。
特定の常連さんはいるものの、新規のお客さんは入りずらい雰囲気のお店でした。繁盛しない昔ながらの飲食店を象徴するかのように店には大量の漫画が並べられていました。

僕は中学にあがるまではお店に入り浸り、置いてある漫画をだらだらと読みふける生活を送っていました。当時はジョジョやバキ、ガッシュや植木の法則にハマっていました。

お店の経営が悪化しているのを見越して、母は小学生の僕を学習塾に通わせてくれていました。この時、塾に通うことで身につけられた「勉強の習慣」は、その後の逆境を乗り越えていく上で非常に役立つことになります。

家族がバラバラになった中学生活

中学は地元の公立校に進学しました。

野球漫画が好きだったので野球部に入部し自分なりに頑張っていましたが、現実は漫画ほど甘くなく、結局3年間1度もレギュラーになることはできませんでした。

「野球やスポーツで食べていくのは難しそうだから、勉強していい大学に行こう」当時は漠然とそんな風に考えていて、勉強に関してはなんとか学年トップをキープし続けることができていました。

転機を迎えたのは中学2年生のときでした。
上の兄弟が家を出るタイミングで、父親が自営業を辞めました。さらに勢い余って(?)両親も離婚してしまい、家族はバラバラになってしまいました。

中2の僕はどちらの親権を選ぶのかという選択を迫られました。
・教員免許を持っていて頼れる人もいるように見えた母親
・50歳を超えて無職になり借金を背負って職人気質で友人の少ない父親

このとき、僕の選択に影響を与えたのは「ジョジョ」でした。
僕はジョジョの中でも5部、特にブチャラティが好きでした。

ブチャラティ

ブチャラティに影響を受けていた僕は、「父親は自分がいないとダメになる」と考え、父親の親権を選びました。
その結果、経済的に非常に厳しい状況になりました。

格差を実感した高校生活

お金がない中でも、北野高校という大阪の公立高校では一番の高校になんとか進学することができました。ここでの超優秀な同世代との出会いは今でも僕の財産になっています。

一方で、僕は周りの同級生との置かれている環境の違いに驚かされました。
東大生の親の6割が年収950万円以上と言われるように、偏差値の高い高校ほど裕福な家庭の子が多く、それまで育ってきた環境との違いに当時は劣等感を感じていました。

なぜなら僕は普通の生活でさえ自分がなんとかしないとどうにもならない状況だったからです。
例えば、
・部活の試合に行くための交通費がない
・家の電気やガスが止まる
・父の給料日前には冷蔵庫に食べるものがなくなる などです。

平井自画像

(余談ですが、当時の美術の時間に書いた自画像です。絵の具セットを没収され買えなかったので、友達に借りた茶色系の絵の具だけで描きました。美術は5段階で2でした)

当時は格好悪いからという理由で誰にも、家にお金がないことや自分が父子家庭であることについて話すことはできませんでした。

そんな高校生活だったので、放課後はバイトをして生活費に使ったり受験費用を貯めていました。また、バイト以外でも何か稼ぐ手段はないかと考え、ネットゲームのアイテムを集め、換金しお金を稼いだりもしていました。

大学受験の失敗と誤算

高3に入ってからは、なんとか自分で貯めたお金で家の近くの東進に通って、猛勉強しました。
家庭の状況的に絶対に浪人はできないというプレッシャーの中で、「いい大学に行って人生を好転させてやるぞ」という想いで、自分を奮い立たせていました。

しかし、結果として第一志望だった大阪大学には落ちてしまいました。
受かる自信があっただけにかなりショックだったのは覚えています(実際、後の成績開示では、合格点まで後3.2点でした)。

とはいえ、私立の同志社大学には受かっていたので、「学費は国公立よりは高いけど奨学金借りて頑張ろう」と気持ちを切り替えて入学手続きをはじめました。そのときに事件は起きました。

奨学金の支給は大学入学後の5月です。そのため、一度入学金などの初期費用を負担する必要がありました。費用負担が難しい家庭には建て替えの措置をしてくれる制度がありました。

しかし、結果としてその制度を活用することはできませんでした。
当時、お金がなく精神的にも余裕がなかった父は、私立大学に進学することをよく思わず、申請自体も煩雑なことから期限までに申請することができませんでした。

そのため、入学に係る諸々の費用を払えなくなり、大学に進学できないという状況に陥ってしまいました。

「今度こそ」と誓った浪人生活

しかし、僕はそこで運よく2度目のチャンスを得ることができました。
事情を耳にした母が、助け舟を出してくれたのです。

「予備校代までは出せないけど、受験費用や生活にかかる費用は私が出してあげる。せっかくここまで頑張ってきたんだから、もう1年頑張っていい大学に行きなさい。出世払いで返してくれたらいいから」

離婚していた母の手助けのおかげで浪人し、もう一度大学受験にチャレンジできることになりました。

もう一度チャレンジできる。その想いは僕にとって非常に強かったです。
現役時の失敗を活かしつつ、計画を立てて勉強に明け暮れました。
その結果、11月の京大模試でA判定を取れるまでに成績は上昇しました。

京大模試

京大模試2

(過去の写真フォルダを見ると、嬉しかったからか画像が残っていました)

センター試験でも悪くない点数を取り、満を辞して京都大学を受けました。
しかし、結果は不合格でした。

「勉強以外で今の生活から脱出する手段はない」と思っていた当時の自分。
頼みの綱の大学受験でさえ、結果を出すことはできませんでした。

京大に進学できなかったことよりも、期待してくれていた周りの人の期待にまた応えることができなかったということが何よりもショックでした。

後編の予告

ここまでの人生で、”勉強ができなかったら自分には価値がない、お金を稼げる仕事をしたい、リーダーや代表なんてガラじゃない”
そう思っていた僕がなぜプログラミングの支援をするNPOを立ち上げ現在に至ったのか。

後編では大学入学後、なぜCLACKを立ち上げるのに至ったのかについて書いています。

ここまで読んでくださってありがとうございました!
CLACKという団体にも興味が湧いてきた、という方はぜひ団体ページからご応募ください。お待ちしております。


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