ムリンディ/ジャパン・ワンラブ・プロジェクト
ルワンダは59年から始まった大虐殺のために、国民同士の信頼が失われてしまいました。
過去に起こった出来事から学び、信頼を取り戻し、憎しみを捨て、愛し合えるようなルワンダを一緒に作ることを目的としながら、障害者支援を進めます。
ルワンダにはさまざまな原因で障害を負った人たちがいます。彼らは自立し、社会に参加することを望んでいますが、障害のために阻まれていることも多いです。
ワンラブはそんな彼らの自立を促すために、以下のことを行っています。
ワンラブは首都キガリ市に義肢製作所を設け、そこを拠点に義肢装具士の育成や義足製作を中心に障害者支援を行っています。
2024/02/07更新
【ルワンダの歴史。】
もともとルワンダには民族の違いはありませんでした。王様のもと、牛を飼う人、畑を耕す人、焼き物を作る人たちが平和に暮らしていました。
しかし1900年代に西洋に植民地にされたことにより、国民を分断、対立させる構図が作られました。国民を3つの民族に分け、優劣をつける政策が取られたのです。そのため国民同士の信頼がなくなり、優越感を持ったり、相手をうらやんだり、憎しみ合うような感情が生まれてしまいました。
その結果が59年から始まった民族対立によるルワンダ大虐殺です。94年に起こった大虐殺ではわずか3か月の間に100万人以上の人が殺され、たくさんの人が鉈や斧で手足を切り落とされるなどの障害を負いました。
【国造り。】
幸い94年7月に大虐殺は終了し、新しく生まれ変わったルワンダは、対立・虐殺の原因となった民族名が書かれていた身分証明書を廃止し、民族をなくしました。「ルワンダ人」として国を作っていくことを決めたのです。
政府と国民が一丸となって、国の復興に力を注いできました。
そしてワンラブも96年にルワンダ政府からNGOと認定され、国造りに参加してきました。
【届かない声。】
虐殺後、目覚ましい復興を遂げるルワンダにおいて障害者の立場や生活は少しずつ改善されてきています。
しかしまだ不十分なことも多く、彼らの声は十分に届いていません。
2024/02/07更新
【出会い。】
この活動は出会いから始まりました。代表と副代表は1989年ケニアで出会いました。ルワンダの大虐殺から逃れてケニアで生活をしていた、足に障害のあるルワンダ国籍の男性ガテラ・ルダシングワ・エマニュエルは、日本人のルダシングワ真美にアフリカの良いところ、そして闇の部分を教えてくれました。
お互いに惹かれ合い、ルワンダの大虐殺が終わったら、被害に遭った人たちを支えたいと願い、NGOを設立しました。そしてルダシングワ真美は自ら義肢装具が作れるよう、横浜にある義肢製作所に弟子入りし、義肢装具士の国家資格を取りました。
そしてガテラは94年の大虐殺終了後、すぐにルワンダに戻り、団体の設立に動き回りました。
【歩み。】
最初は街の中心から少し離れた、レストランだった場所を借り受け、小さな義肢製作所を開きました。しかし場所は狭く、未舗装の急な坂道に位置していたため、足に障害のある人たちはアクセスしづらく、政府に他の場所を提供してもらえないかと1年かけて交渉し、1ヘクタール以上ある土地を譲り受けました。
その場所は何もない荒れ地だったので開拓していく必要がありました。そして資金もままならなかったので建物を建てるためのレンガも自分たちで手作りし、ワンラブランドと呼ばれる施設を築き上げました。
そこには義肢製作所の他に、活動資金を生み出すためのレストランとゲストハウスを併設しました。
後にこの場所と地域はは、気候変動による大雨のため、土地の中を流れる川が氾濫し、5度も洪水の被害を受けることになりました。そしてその状況が危険であると判断した政府により、建物を強制撤去され、移転を強いられました。
目の前で自分たちが作った建物を壊され、精神的にも非常につらい時期でしたが、たくさんの人たちの応援の下、再建を目指すことを決意しました。
そして現在は新しい場所に建物を建て、義肢製作所とゲストハウスの運営を進めています。(レストランも運営を検討中。)
【障害者の自立を目指して。】
障害者の声が行政に届かないことも多かったため、彼らの生活は不便な部分も多かったことから、当団体が政府に働きかけ、国会議員の中に障害者枠を一席作るよう提案したところ、可決されました。これにより、障害者の声が届きやすくなりました。
また公共の施設などでは、障害者のための設備が整っていなかったので、例えば車いすのスロープを設置するなどバリアフリーを提案してきました。
しかし障害そのものがなくなるわけではなく、障害者が仕事に就き、社会に参加することがまだ難しい状態です。
手足を失った人たちは行動範囲も狭くなり、人との出会いも減ってしまうこともあります。
障害者がもっと社会に出て活躍するためには義足が必要です。
義足を履いて、外に出て、行動範囲を広げ、人との交流を深めることによって、彼らの生活を大きく変えることが出来ます。そしてさまざまなチャンスを得ることが出来ます。
1996年
ガテラ・エマニュエル・ルダシングワとルダシングワ真美がルワンダでNGO設立。
ルワンダの法務省よりNGOとして承認されました。
1997年02月
キガリ市に義肢製作所をオープン。義足作りのスタート。
1999年12月
ルワンダで初めて「障害者の日」の式典を催しました。スタジアムに障害者が集結し、コンサートや寸劇が行われました。この「障害者の日」の式典は現在も続いています。
2000年10月
当団体が国際パラリンピック委員会に働きかけ、ルワンダを初めてのパラリンピック出場に導きました。
シドニーパラリンピックに、足に障害のある男性が水泳の競技に出場しました。
2002年
地方に住む障害者を訪ねて義足を作る巡回診療がスタート。
義肢装具士と共に、車に材料や道具・配布する杖を乗せて地方を訪ねる試みです。多い時には200人以上の人たちが訪れます。
2004年
神奈川県の海外研修員受け入れ制度の支援を受け、義肢装具士を派遣。その後毎年10人の研修員を送りました。
2004年
愛知県で行われた「愛・地球博」に参加。瀬戸会場のブースで6ヶ月間展示をしました。
2007年09月
ブルンジ政府の支援を受け、首都ブジュンブラに義肢製作所を開き、義肢製作を行う。約10年間活動を続けました。現在は治安の悪化から活動はしていません。
2007年11月
静岡で開催されたアビリンピック大会(障害者の技能を競い合う大会)に初出場。足に障害のある女性が刺繍の競技に参加しました。
その後、韓国ソウル大会(義肢製作・絵画・洋裁)、フランスボルドー大会(義肢製作)、フランスメッス大会(マッサージ)の競技に選手を出場させました。次回はフィンランドで行われる予定です。
2020年02月
1996年に政府から提供された土地に義肢製作所の建築をし、活動を続けてきましたが、気候変動による洪水の被害を5度受け、その地域の住民全てが被害拡大を防ぐために強制退去させられました。
自分たちでレンガを作って建てた建てた義肢製作所・レストラン・ゲストハウスも、ショベルカーにより強制撤去され、移転を強いられました。
2022年05月11日
再建のための資金集めをし、義肢製作所とゲストハウス・レストランを伴う建物を建設。
5月についに再オープンを果たしました。
団体名 |
ムリンディ/ジャパン・ワンラブ・プロジェクト |
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法人格 |
任意団体 |
HPのURL | http://www.onelove-project.info/ |
代表者 |
ルダシングワ真美 |
設立年 |
1996年 |
FacebookページのURL | https://www.facebook.com/mami.rudasingwa |